メモ:人間の集団や社会における「線引き」について
※ この文章は、Facebookのある投稿から着想を得て書かれたものです。
個人的に、社会や集団を極限までシンプルに定義すると「線引きされたもの」だと思っています。 数学的に言えば「集合」です。
過去の争いや戦争も、結局は領土や宗教や人種などの「陣取り合戦」なんだと思います。
しかし同時に、「線引き」は危険を排除するために必要なものであることも忘れてはいけません。
極論を言えば、例えば「地球を侵略してきたエイリアン」が来れば、我々はそれを受け入れる余地はないでしょう。その際の線引きは必要悪です。
それを地球全体、国全体、地域、コミュニティ、家庭…とブレイクダウンしても原理的には同じはずなのですが、必ずどこかで「線引きをせず、あなたを仲間と認める」段階があります。
別の例だと、いくつかのパーソナリティ障害や発達障害を持つ人で、いわゆる「自他の境界線」をうまく引けない人が少なからずいます。
それにより、例えば「自分のこだわりや信念を他人に押し付ける」「家族に愛着が持てずDV(家庭内暴力)の加害者になる」「DVの被害者になった経験から、友達や恋人を信頼できない」「恋人に過度に依存する」といった形で問題が表面化します。
※ 参考書籍
そう、「線引き」とは、「誰を仲間(友達、パートナー、家族、会社、コミュニティなどの一員)と認めるか?」の意思決定なのです。 その際の倫理やら法律やら条例やら正義やら価値観やら嫌悪感やらが複雑に交わって、今の差別や争いの元になっています。
ところで、最近は「線を引くことだけを人の区別に使うのは妥当なのか?」という疑問があります。
例えば、アスペルガー症候群に代表される発達障害は、その定義上「障害特性は明確に線引きできず、連続的に(スペクトラムとして)分布する」という特徴があります。
つまり、線引きのように「1か0か?」という判断基準ではなく、「もっと曖昧な線引き」があってもいいと思います。 (数学的には、確率のように「0.0から1.0までの連続的な実数」と定義できるかもしれません。)
しかし、「曖昧な線引き」を実際に人間がすることは、非常に難しいです。 理由の一つとして、人間の脳における認識や、普段使用する自然言語が「曖昧な線引き」と相性が悪い点があると思います(個人的見解)。
例えば、「確率20%」や「確率80%」などを明確に形容できる言葉はあるでしょうか? せいぜい「あまり」とか「おおよそ」という言葉ぐらいでしょう。
そのような言語を、複雑な発達障害の特性の説明に使おうとすると、すぐに破綻してしまいます。 つまり、「発達障害が分かりにくい」とされる要因として、「言語学的な困難」も無視できないでしょう。
話を戻してまとめると、以下の通りです:
- 人を区別する方法には、「明確な線引き」だけでなく「曖昧な線引き」があるはず
- しかし、「曖昧な線引き」を的確に表現する方法が、現在普及している自然言語には備わっていない
では、解決策は?という話ですが、僕も分かっていません。 発達障害については各種テスト(アセスメントツール)を標準化する方法もありますが、それも前提として発達障害の基礎知識が必要なため、これだけでは不足するでしょう。
うまく「曖昧な線引き」を可視化・言語化・定式化する方法を、これからも模索してみます…
藤原 惟