ショートショート:伝説のDJ

(Image by ChatGPT)
大阪の小さいクラブで実際に体験した話をしよう。
ある老DJが音楽をかけながら、僕にこう言った。
「俺がプレイする間、あの男とあの女を見ておけ」
その男女は3メートルほど離れて、各々音楽に浸っている。
老DJはプレイを続ける。踊りの渦が、男女の間に引力をもたらす。3メートルは30センチになった。
次のDJに交代する頃、例の男女はフロアを去りかけていた。その手と手の間は0ミリメートル。
「1時間後には0.03ミリやな」
老DJは最悪な耳打ちしてブースから去った。
「書く」という行為をどの文脈に置くか
10年ぐらい前に、ブロガーが集まる交流会があった。
自分は好きなことを細々と書くだけの人だったが、主催の方をはじめとした多くの人が、アフィリエイトで収入を得るなどの前提でブログを語っていた。
そのときはピンときていなかったが、ブロガーには自分がイメージする「ブログを書く人」とは別に、「ブログで稼ぐ人」という文脈があることにあとから気づいた。
「ブログで稼ごう」という文脈に何も知らない自分が入ってしまったので、話を聞いていても「何を言っているのだろうか」と思ってしまった。
自分の文脈だと「なぜあなたはブログを書くのか」という問いは自明ではなく、それだけで話題になるぐらいだと思っていた。しかしあの場にいた人の多くは「ブログは稼ぐためにやる」という前提がある。
その二つの文脈は、noteが登場してからより明確になった。 稼ぎたい人は有料記事を出すか、無料記事を別の収益源への誘導に使った。 稼ぐことに興味がない人は、日記などの無料記事を淡々と書いていた。 その中間に、収益はトントンでいいが取材費や経費をペイしたいので有料記事にする人もいて、いろいろな文脈がミックスされていった。
昔の自分は、文章を書くことを神聖な行為だと思う節があった。自分の価値観や精神性をさらけ出す勇気が必要だった。
実際には、そうでない文章の世界もたくさんあることをあとから知った。システマチックに、工場のように稼げる文章を生産する。本業か副業かお小遣い稼ぎか。ブロガー本人の個性や味をどれだけ出すか。そういうグラデーションもあったが、基本的には「稼ぐ」がキーワードとなった。
稼ぐことは尊い営みだ。自分も稼ぐ方に行けたら、今ごろ苦労していなかったかもしれない。
ただあの頃の自分にとって、書くこと自体が生きることだった。自分の考えや価値観を晒すことで、金銭ではない何か大事なものを得られると信じていた。自分のやわらかい部分を資本主義に捧げる訳にはいかなかった。
今はいろいろ経験をして、バランスを取れてきたと思う。商業向けの文章も割り切って書ける。だからこそ、何を大事にするべきかを言語化する必要があると再確認した。
「書く」という行為や文章そのものを、どの文脈に置くか。それを取り違えてはいけない。
ちなみにこの文章も、何かターゲット読者や狙いがあって書いている訳ではない。あらかじめテーマや構成を決めたわけでもない。ほぼ上から下に書いていき、少しの手直しをしただけである。
公開する以上は読者に読んでもらいたいという気持ちがある。ただ、その読者は少なくてもいい。刺さるのはたった一人だけでいい。未来の誰かや自分が読んでくれてもいい。そういう儚い気持ちだけがある。
藤原 惟
名残のたそがれ、怒りのからあげ
YouTuberに憧れていた。
一年ぐらい前、三脚を買った。最近は映像による日記をvlog(ビデオブログ)と呼ぶらしく、そういうのを撮ってみたくなった。
一度は撮ってみたけど、三脚はそれっきり使わず物入れに寝かせていた。「三脚とスマホがあれば何でも撮れる」とわかっていたのに、vlogをやる度胸がない。今日まで来てしまった。
今日、三脚を売った。100円にもならなかった。
引越のために、かさばるものを片っ端から捨てる必要に迫られている。その一環で、リサイクルショップに物達を差し出した。悲しきこんまりバーサーカー。ちなみにジャケットは値段が付かず返された。
リサイクルショップの前で、しばらく突っ立っていた。たそがれを眺める。いつもより鋭く、温かい。
憧れていた行為の、可能性を捨ててしまった。スマホは残っているし、安い三脚だけでvlogやっている人は何人もいる。でも「それを捨てる」という選択をした。
元々、いらなかったものだ。ある三叉路の先へ進むには、一方の道を選び、もう一方の道を捨てなければならない。それを捨てたことは、道を選んだことだ。
私は何をしたかったのだろうか。表現をすることに怖じ気づいていたのか。それとも、怠惰か。未練があるとすれば、何に由来するものなのか。答えは出ない。
しだいに怒りが湧いてきた。てめえ、よくこんなショボい値を付けやがったな。二度と来ないからな!
業務スーパーに寄った。いちごが200円切っている。明らかに安い。けど、それを手に取る気力はなかった。
からあげだ。業務スーパーに入る前から、決まっていた。小さいおひとりさまパックではない、業務用の500gパックだ。
ついでに、牛丼や割引惣菜もいくつか買った。ひとり暮らしであの山盛りの牛肉を買えないが、牛丼なら手頃で最高だ。しかし、からあげは山盛りでなくてはならない。
店を出る。例のいちごだけを袋なしで持ってるおじいちゃんに、「駐輪禁止」のラベルを付けたまま自転車を停めるお嬢さん。すべてを受け入れてくれる。業務スーパーに来ると、生きる気力が復活する。
宴だ。文句は言わせない。名残は怒りに、たそがれはからあげになった。

藤原 惟
MJBの缶があるから簡単には死ねない
パンツマンとよばれる、ふざけた名前の動画投稿者がいる。
「独身中年男性が淡々と料理を作って食べるだけ」という動画を出している。 合計600本以上をアップロードしており、ニコニコ動画の料理タグでは根強い人気がある。
絵面はみすぼらしいが癖になる。それがパンツマンの魅力だ。
高齢化と老朽化が進む団地で、使い古したテーブルや押し入れに囲まれながら、おっさんが料理を作り、ぶつぶつ言いながら飯を食う。 それだけの動画が何万も百何万もの再生数を数える。
彼は砂糖をMJBの缶に入れている。コーヒー粉が入っていたその缶は、おそらく10年や15年近くは活躍している。 黄色い蓋は汚れ、ボディはさびている。
そのMJBの缶が、かっこよく見える。黄色とグリーン、力強い「MJB」という文字。 ただの缶なのに、安心感がある。
最近まで、コーヒー用にきっちり閉まる密閉容器がほしかった。ニトリに行けばよかったが、タイミングが合わない。
ある日、成城石井でそのMJBを見つけた。340gで300円ちょい。安い。
サイズがちょうどいい。「かわいいなあ」と両手で抱え、気持ち悪い客となっていた。 密閉性能はたぶん良くない。それでもいい。
MJB、中身の粉は、ふつう。ふつうがほしい。安定の味。
ひととおり缶を空にし、別のコーヒー粉を詰め替える。400gの粉だと、60g分が入らない。 そういうはみ出しをどうにかしていくのも楽しい。
最近は、気分が落ち着かなかったり、不安になることも多い。ときどき、生きる意味も失いかける。
MJBの缶は心強い。パンツマンはあれに砂糖を入れ続けたのだから、きっと長く使える。MJBのおかげで、根拠のない自信が出る。
根拠のない自信というのは、無から湧き出るものではない。
愛着のもてるものを、身にまとったり、身近に置いたり、買ったり、飼ったりする。 そうしていくうちに、自分自身の中に愛着のあるものを見つけられたら、あとは自走できる。
パンツマンは最近、結婚した。今では夫婦でご飯を食べている。 そういう緑茶をじっくり味わうような幸せが、私を今日も生かしている。
藤原 惟
汗だくセレクトショップ
行く宛てもなく散歩にでかけた。
近所にパン屋がある。普通の2〜3倍ぐらいするけど、丁寧に作られた上質なパンが買える。そこでミルクフランスをお持ち帰りして公園で食べようと思っていた。
ふと思い出したかのように看板を見る。2階の奥に服のセレクトショップがあるらしい。1階のパン屋と違い、わざわざ階段を上がらないと行けないハードルがある。なぜか、そこに行きたい衝動が生まれた。
私はファッションに無頓着だ。ユニクロでまとめ買いして「痛い出費だなあ」と思うし、靴は気に入ってるけどボロボロになっている。
それでも気になる。昔は古着屋さんで似合う服を選んで買ってた時期もあり、服を眺めたい欲はある。買うお金がない。
最近、何かと「勇気を出す」機会がなくなってしまった。幸い、今までの人生と比べると「現状維持できる」ことの価値とありがたみを感じられるようになった。
しかし、このままでいいんだろうかと自問自答する。もしかしたら、このセレクトショップに飛び込んでみたら、新しい刺激が得られるかもしれない。理由はわからないけど、行かなかったら後悔しそうだ。
そんな焦燥感から、セレクトショップのドアを開けた。
整然と並んだ服達、そして小物達。こじんまりとした綺麗な世界。
店主は静かに、気さくに声をかけてくれた。適度な距離感で少し安心した。
話によると、遠くから来るお客さんが多いとのこと。自分みたいな近所の通りすがりは珍しい。
モード系寄りの服が多く、よく見ると個性的なデザインやサイズ感の服が多いらしい(半分ぐらいわからんけど)。
……そのうち、服や額に汗をかいてきた。やばい。
まず、それなりに散歩した後だった。ただでさえ汗をかく。服装の調節も苦手で、今日は暖かいのに4枚ぐらい重ね着していた。
そしてとても緊張していた。慣れないセレクトショップに立ち入り、無頓着な服装で、おまけに汗をかいている。
とても恥ずかしい。「ああ、このお客さんは冷やかしだな」と思われるのもつらい(実際そうだ)。臆病な自尊心の塊は、ついにごまかしきれないほどの汗を放出した。
うつむいたら汗が床に垂れる。商品に汗を垂らしたらウン万円の買い取りコースになるだろう。
とりあえず服の陰に隠れ、袖で汗を拭く。そして「袖で汗を拭くなんて、ファッション舐めてるだろ」と思われてるに違いないと、さらに汗が止まらなくなる。
なんとか「ありがとうございました」と言って店を出られた。店主の視界から消えたところで堂々と汗を拭う。「思い残すことはない」という謎の達成感と、「二度と顔を見せられない」という恥ずかしさが同居する。
家に帰るまで、ひたすら羞恥心に襲われた。人のいないところで奇声を発しながら、しかし向かいから人が来るので一般散歩市民を装いながら帰路をやり過ごした。
何かを成すために勇気を出すことには、恥ずかしさを伴う。勇気を出すまでの恥ずかしさと、勇気を出して失敗したときの恥ずかしさがある。
「何事もチャレンジだ」といった使い古されたフレーズがあったりするが、つまらない日常を変えるようなチャレンジの機会は、案外近くにあるのかもしれない。近所のイオンやイトーヨーカドーにも、そういう機会はあると思う。
そのとき「恥ずかしいっ!」という気持ちをよく観察しておくのがよい。アレルギーのような過剰な羞恥心が生まれるのは、何かしらの原因があるのだと思う。その原因をほじくらなくても、「昔なにかあったんだろうな」ぐらいは思ってもいいだろう。
家に帰った私は、上着以外のすべての服を脱衣カゴに投げ込んだ。汗でびっしょりになった服達を見て、「やっぱりユニクロでいいや」とセリフを投げ捨てた。
藤原 惟



