人生のレールを外れた自分が、会社勤めの同期達と話して思ったこと。2016-05-08

(昨日飲んだ、ノンアルコールのトマトサングリア。ほんのり甘くて美味しい。)

昨日、会社員になった同期達と大阪の繁華街で飲んでいた。 一件目は流行りのスペインバルで、二件目は喫茶店で。

大手ゲーム会社に入った奴は、大学院時代は英語学習が好きで(本当に)意識が高くて、入社までは輝かしかった。今は単調な毎日に追われてくすんでいた。 職場は割とホワイトで文句は無さそうだけど、物足りなさも感じていたようだ。

大手電機メーカーに務め、今は家庭と子供がいる奴は、育児の大変さを楽しそうに話しながらも、仕事と育児と家庭に時間が取られて趣味ができないとぼやいていた。 ただ、「子供が大きくなったら、一緒に釣りに行きたい」と言っていて、そういう人生も楽しそうだった。

別の奴は堅調な中小企業で平凡な毎日を過ごす中、「外の世界に触れる」ために、YouTubeでゲーム実況を始めていた。 ツールが進化した今の時代はゲーム実況が簡単に作れるらしく、楽できた分の労力を実況用の台本作りに注いでいるらしい。「雑談とキャラ付けが重要」らしく、それなりに奥が深そうだった。

大学院時代にうつ病のどん底だった自分は、今も社会的地位はないし、金銭的な余裕がなくて親に頼っている。 彼らと違い、ネガティブな意味でレールから外れた人生を送っている。

だから、リアルな生活の代わりに、知っている知識をひけらかした。うつが悪化し数ヶ月ほどベッドから動けなくなったときに、ひたすら読んだWikipediaから得た雑学を。 職場における「常識」の話では、社会学における「常識」の定義付けを。 小中学校の「国語」が嫌いだった話では、ポストモダンの「物語論」の話を。 幸い、僕のうんちくは好評で、僕の自己肯定感は高まった。

二次会代わりの喫茶店で「老後をどう生きるか?」の話になり、自分はそのときに「数学書と哲学書があればいくらでも時間をつぶせる」と気づいた。言い換えると「暇を楽しくもてあます方法」を、長い闘病生活で"開発"していたのだった。

将来に関して、同期達は概ね今の環境を楽観視していながら、漠然とした不安を抱えていた。 自分は、社会人生活が元からマイナスからのスタートなので、「これ以上は悪くならないはず」と根拠のない楽観視をしていた。 もちろん、親に万一のことがあれば、別のところからお金をひねり出す必要に迫られる。でも、最悪そうなっても大丈夫な気がしている。根拠はないけど。

結論として、こういうことは言えると思う。

  • 幸せや価値観は、他人と比べることではない。各々大変だけど、たぶん各々幸せなことはある。
  • 雑学に「役に立つ」ことを期待してはいけない。でも、雑学が多ければ生活や身の回りや社会を多面的にとらえることができる。
  • 加えて、たまに思わぬところで、雑学が役に立つこともある。そのタイミングは全く予想できない。
  • 会社勤めは案外悪くない。毎月お金が降ってくるし、面倒な会計や法務は他部署へ丸投げできるし、会社によっては福利厚生や寮もしっかりしてる。ただ、変化がなさ過ぎることが倦怠感になったり、大手だと「家庭持ちほど逃げないので、単身赴任のリスクが高い」とか色々あるらしい。
  • フリーランスはくそ面倒な茨の道だと思うし、安易に他人にはお勧めしたくはない。確定申告はやらないといけないし、事務や会計も金払って頼むか自力でやるしかないし、お給料や福利厚生は(年金払えなかったり保険や共済に入ってなかったら)全くの無保証である。その代わり、会計や労務の知識は無駄にはならないし、(食えるスキルがあれば)社会がおかしくなってもどうにでもなると思う。

最後に、余談を。僕が普段ブログを書くときは、大抵はアウトライナー(WorkFlowy)で論理や説明を組み立ててから、ベタ書きの文章に変換して加筆修正する。 だが、この文章は、iPhoneのテキストエディタ(Drafts 4)だけで使って書かれたものである。実際、この文章には、いつもあるはずの章立て(見出し)がない。全くとりとめのない文章である。

たぶん、前者の方が「一つのブログ記事」としての完成度は間違いなく高いはず。でもこの文章は、後者のように思いつくままに書かないと、たぶん書けない文章だと思う。 需要があるかは分からないけど、とにかく今日はだらだら書きたい気分だった。「雑文」ってこういう文章を言うのかな、とちょっと思った。

藤原 惟