その「小さな狂気の閃光」を失うな
その「小さな狂気の閃光」を失うな
とある性格診断テストの結果に、そう書いてあった。
頭に電撃が走る。「ああ、忘れていたんだ!」
思えば、自分が何かをやり始めるときは、「小さな狂気」が伴っていた。自分にとっては自然の成り行きのつもりだけど、他人から見て「えーっ!?」ってなるアレだ。
ここ1年は、迷いがあった。
何かが終わって、何かを始めようとして、ただ始めるための補助輪がなかなか外せない感じ。
主に二つ。「現実と折り合いをつける決心をした」ことと、「〈読者のことを考える〉文章を書くこと」。
前者。自分に甲斐性がないために、愛する人が離れていった。幸いエネルギーは回復しつつあったからこそ、「ここで頑張らなかったら、一生このままかもしれない」という焦りがあった。
後者。文章でお金をもらうために、いろいろやった。常に読者という他人を意識し、推敲やレビューの度に神経をすり減らしながら、ひと仕事はできた。
そうしているうちに、自分にとって大切な行為を手放していた。
「自己満足のための文章」を書かなくなった。「他人に理解させる気のない文章を、他人に読ませる」という狂気を我慢しようとしていた。
かつて、「はてなブログにはもう書かない」と決めたことがあった。新天地に移るべきだと思った。なんとなく、それはnoteだと思った。始めたばかりのnoteは、居心地がよかった。
そのとき、noteの二面性には気づかなかった。それはnoteの最大のメリットだし、自分もそれを享受できたと思う。正直、めちゃくちゃ嬉しかったことは何度もあったし、当面noteを閉じる気はない。
しかし、もうnoteで駄文を書ける気がしない。そこには、「実用文」ないしは「自信のある文章」しか置けない感じになってしまった。他のユーザーはそうではないと思うけど、自分のnoteアカウントはそういう育て方をしてしまった。
「商売をしたいなら、自分の商店の中にプライベートの物を置くなんて言語道断」……そういうアドバイスを賜ったことがある。それは個人事業として正しい。
そのアドバイスを受け入れることにした。「小さな狂気の閃光」の大部分を失ったことに、かなり時間が経ってから気づいた。
ありがたいことに、それ単体で食ってるわけではないけど、一応「文章でお金をもらう人」にはなれた。
しかし、狂気の文章は次第に書けなくなった。下書きにすら出せなくなってしまった。そして、趣味で文章を書かなくなってしまった。
ふんわりしてよくわからない「物書き」から、少しデキそうな雰囲気だけは醸し出す「ライター」になってしまった。箔は付いたけど、その薄っぺらいハクを守るだけの存在になりかけていた。
〈読者のことを考える〉……それは否定しがたいし、大切なことだと今でも思う。あまりにも正しすぎる。しかし、そんな黄金律につばを吐きかける自分は、すっかり潜んでしまった。
〈読者のことを一切考えない〉そんな文章を書くのが好きだった。
リハビリを始めようと思う。
哀しいことに、自分は「小さな狂気の閃光」なしには、文章を書けないらしい。文筆専門のプロとして生きるのは、やっぱり大変だった。
幸いにも、稼ぎについては文章以外でも折り合いが付きそうな感じになりつつある。アイデンティティとして「ライター」にしがみつく必然性はなくなった。だから、〈読者のことを一切考えない〉文章をまた書いていこうと思う。
「書くことを好きになってほしい」……いつか大切な読者に投げかけたそのフレーズは、自分のなかの読者に最も伝えたかった言葉だった。
藤原 惟