初詣ベビーカー論争におけるもう一つの視点:そもそも「ベビーカー参拝の作法」がないからでは?

Oyama Jinja Shrine

2017年早々、SNSで次のような看板がある神社に掲げられたことが報告されたことがきっかけになり、「初詣にベビーカーでお参りすること」の是非が各所で激しく議論されています。

『ベビーカー利用自粛のお願い』

年末年始は境内混雑のためご入門をお断りする場合がございます。

詳細は下記の記事をご覧ください。

上記の議論のうち、多くは育児・福祉サイドの立場から「社会はもっと自由で寛容になるべき」という立場が主流です(僕自身はリベラリストなのでこの意見に賛成します)。

しかし、「神社は宗教施設である」という観点での議論は(私の観測できる範囲では)あまりないため、この記事では「神道としてベビーカーをどう取り扱うべきか?」について、私の意見を簡潔に述べたいと思います。

おことわり

以下は私の個人的な見解です。この見解を唯一とするものではなく、読者に強要するものでもありません。

そもそも神社とは?神道とは?(簡単に)

まず本論に入る前に、簡単に「神社とは何か」「神道とは何か」を整理しておきます(時間が限られるので、ごく簡単にですが)。

神社とは

家庭が特定の宗教を信仰している場合を除き、「普通に」生まれ育った日本人であれば、神社にお参りすること自体は何ら疑問や意義はないと思われます。 しかし、そもそも「神社」って何?ということは、あまり考えたことがない人も多いのではないでしょうか。

じんじゃ【神社】

日本固有の神々を祀る神道特有の建築物をいい,あわせて祭祀,信仰の組織をもさす。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

神道の信仰にもとづいて,神々をまつるために建てられた建物,もしくは施設を総称していう。(世界大百科事典 第2版)

(出典はいずれも 神社(じんじゃ)とは - コトバンク による)

つまり神社とは

  • 日本固有の神々を祀る建築物
  • 神道における祭祀・信仰の組織

ということです。(ちなみに神道は「しんとう」と読みます。)

神道とは

ここで「神道」というキーワードが出てきました。これは少し定義に注意が必要です。

まず、外国向けを意図した辞書における定義では「宗教・信仰の一つ」と位置づけられることが多いです。

しんとう【神道】

日本固有の民族宗教。日本人の信仰や思想に大きな影響を与えた仏教や儒教などに対して,それらが伝えられる前からあった土着の神観念にもとづく宗教的実践と,それを支えている生活習慣を,一般に神道ということばであらわしている。(世界大百科事典 第2版)

(出典:神道(しんとう)とは - コトバンク

ところが、日本においては「宗教」という言葉は曖昧です。具体的には次のような意味があるようです:

  • religionの訳語(教義宗教): 教義・教典をもつ宗教(例:キリスト教)
  • 宗教団体
  • 信仰: 個人の生き方、行動の指針になる考え

(参考:神道は宗教なのか?(出雲大社紫野教会)

一方、よく言われることとして、「神道には経典はない」ということがあります。

Q3/神道には教義・教典はありますか…?

A/神道は日本人の生活文化の中から生れ育ち、生活様式の中で変遷してきた信仰のため、ある特定の教祖が創唱した他宗教のような統一した教義や教典を有しません。

あえて神道的教義を見い出そうとすれば、古事記や日本書紀また各神社に伝わる祭りの中に内在しているといえます。

(出典:神道について(立鉾鹿島神社)

ちなみに、よく言われる「神社の礼儀作法」のうち明文化されたものは、近世以降の国学者によって整備されてきた、比較的新しいものが多いです。その意味で、神道にはオリジナルとなりうる経典は存在しない、とする理解が最も自然なように(私は)思います。

以上より、「神道は信仰である」というのが比較的正確だと思われます。(よって、一部の宗教関係者は「神道は宗教でない」という言い方をする場合もあります。)

神(Kami)とは

「神社には神様がいる」「日本には八百万の神がいる」このような言葉遣いに対して、(別の宗教を信仰していない限りは)違和感を感じる日本人は少ないと思います。

しかし「神」という概念もまた曖昧であり、特に一神教(特にキリスト教・イスラム教・ユダヤ教:まとめて「アブラハムの宗教」)との比較においては注意が必要です。

英語版と日本語版で違う「Wikipediaにおける神」

少し脱線しますが、日本における文化や概念は、日本語版Wikipediaよりもむしろ英語版Wikipediaの方がやさしくかみ砕いて説明されていることが多いです。

例えば、「神」についての説明を読んでみましょう。

日本語版の「神」

日本語版の「神 - Wikipedia」は、日本語の語彙としての「神(かみ)」を解説しています。

神(かみ)とは、信仰の対象として尊崇・畏怖 (いふ) されるもの。

(中略)

「神」は古代ギリシア語: "Θεός" テオス や英語: "God" の訳語としても使われている。このように「神」の字で、「神」と訳されることになった、もともと日本語以外の言語で呼ばれていたものごとまで含みうるわけなので、その指し示す内容は多岐にわたっている。

(出典:神 - Wikipedia

しかし、世界各国の異質で多種多様な「神」を統一的に説明しようとしているため、少し複雑な説明に感じます。

英語版の「God」と「Kami」

一方、英語は神を「God」(一神教の神)「deity」(一神教以外の神、Godsとも)として明確に区別します。(God/Godsは単数・複数に注意してください。ここが重要です。)

In monotheism, God is conceived of as the Supreme Being and principal object of faith.

(抄訳)一神教において、Godとは最上級の存在であり、教義の主目的である。

(出典:God - Wikipedia


A deity is a concept conceived in diverse ways in various cultures, typically as a natural or supernatural being considered divine or sacred.

(抄訳)deityは、各地の文化において多種多様な方法で受け入れられている概念である。典型的には、自然的あるいは超自然的な存在であり、神聖あるいは畏敬されるべきものである。

(出典:Deity - Wikipedia

さらに、「神道における神」については、それぞれ日本語版と英語版で

という項目が立てられています。

Kami are the spirits or phenomena that are worshiped in the religion of Shinto.

(抄訳)神(Kami)は霊魂あるいは現象であり、神道と呼ばれる宗教において崇拝されている。

(出典:Kami - Wikipedia

また、項目「Etymology」ではいくつかKamiの定義例があり、その1つを紹介します:

Kami may, at its root, simply mean "spirit", or an aspect of spirituality. It is written with the kanji 神, Sino-Japanese reading shin or jin. In Chinese, the character means "deity".

(抄訳)神の道、その根源、単なる「魂」という意味、あるいはスピリチュアリティー*1の態度。漢字の「神」と書かれ、日中間では「シン」「ジン」と読まれる。中国では、「神」という文字は"deity"を意味する。

(出典:Kami - Wikipedia

以上より、「神道における神はdeityである」と考えて差し支えないでしょう。少なくとも「神道の神は一神教のGodではない」ということがはっきりしました。

主張:日本の神社には「ベビーカーで参拝する作法」が存在しないのではないか?

「神社」「神道」「神」の概念が整理できたので、本題に戻りましょう。 本題は「初詣にベビーカーでお参りすること」の是非でした。

上記で挙げた神道について(立鉾鹿島神社)から再掲すると、「神道は日本人の生活文化の中から生れ育ち、生活様式の中で変遷してきた信仰」でした。

つまり、本来なら神社の作法と「生活文化」「生活様式」は切り離すべきでないものなのです。

しかし、ベビーカーは比較的新しい時代の道具です。

昭和中期ぐらいまで乳母車は使用されていましたが、昭和40(1965)年にイギリスのメーカー、マクラーレンが傘のように折りたためるベビーカー「ベビー・バギー」を開発してから、日本にもベビーカーが急速に普及しました。

(出典:ベビーカー | むかしはね! いまはね! どうする? 子育てギャップ

1965年は戦後であるため、既に日本国憲法下で「政教分離」が掲げられた時代です。よって政府が「神社においてベビーカーはこのような作法を守りなさい」とは言えなかったのでしょう。(これがもし明治時代であれば、国家神道という名目として「ベビーカーの作法」が生まれていたかもしれません。)

そして現代。若い世代の親御さんは「ベビーカーがないと生活や移動に支障が出る」という合理的な理由に基づき、ベビーカーを使用することが多いです。しかし、神社は古来からの生活文化・生活様式を伝統的に引きずった「空間」であると私は思います。(「空間」と強調したのは、神道において神社は「神聖な場所(清められた、穢れのない場所)」という重要な意味合いがあるからです。)

実は、「子供が神社にいる」という状況は、むしろ儀式の一部となるぐらいに重要視されることです。七五三がその典型例ですし、地域の子供が神輿を担いだり引き回すことも現代において普通に行われています。ただいずれにしても、それらの作法は定式化されています。ここが重要なのです。

つまり問題なのは、「神道や神社の作法として、ベビーカー参拝が定義されていない」ことだと思います。

つまり、神主も、昔ながらの熱心な参拝者も、ベビーカーが手放せない若い親御さんも、「正直、ベビーカーでどう参拝するのが正しいのか?」の正解を知らないのです。

例えば

  • ベビーカーで参拝したときは、どのように振る舞うべきか?
    • ベビーカーは清めるべきなのか?
    • 礼拝の際は、ベビーカーはどのように置いたらよいのか?畳む必要はあるのか?
  • 混雑時(初詣など)では
    • どのように参拝客に対して配慮すべきか?
    • どのように神様に対して配慮すべきか?
  • 神社の由緒から考えて、ベビーカー参拝をどう理屈づけるか?
    • 神社にとって、赤ちゃんはどのような位置づけなのか?
    • 特に「安産祈願」「健康祈願」を掲げる神社であれば、赤ちゃん連れ親子に対する「御利益」は想定すべきではないか?

しかし、上記のことは、たぶんほとんどの神社が正解を持っていません。つまり、先ほど挙げた「神社の作法と「生活文化」「生活様式」は切り離すべきでない」という原則からいえば、「現代における生活文化・生活様式から、新しい神社の作法を定義すべき」ではないか?ということが私の主張になります。

新しい作法を作る=民主主義

とはいえ、再度申し上げると、神道には経典はありません。そのような意味では、「統一的なルールとしての作法」を一義的に定義することは、むしろ神道とは相容れないように思われます。(ちなみにこれをやったのが、明治期の国家神道です。)

むしろ、その神社の周辺地域の人が、その神社の作法を決めるべきでしょう。それは現代の言葉で言えば、民主主義ではないでしょうか?

つまり、地域の人と話し合うこと。それが、地道ながらも確実に「ベビーカー参拝」という新しい作法を作るのではないかと私は思います。

追記:まいのこさんのツイート

まいのこさんより、重要な意見をいただいたので紹介します。

特に

神社=神様=すごいパゥワー=行くとご利益ありそう(行かないと罰あたりそう)

↑こういう安直な連想と、娯楽以上の意味をもたない季節イベント感が合体した結果

『そういうものだから、そうするものなんでしょ』という、思考停止の習慣になってるのが初詣・参拝の現状かと。

という指摘は重要だと思います。

(ちなみに、「ご神体」について私もこのようなツイートしました。全ての神社がそうではないことに注意してください。古神道に分類される神社では、岩や山などの自然物が「ご神体」とされる場合も多いようです。)

補足:今の「初詣」という風習が定着したのは明治以降らしい

そもそも「初詣」は比較的最近(明治以降)にできた風習のようで、神道や神社として絶対的な由緒があるものと言い難いもののようです。

(以下、出典は 初詣 - Wikipedia による。)

元々は「年籠り」(としこもり、としごもり)と言い、家長が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の社に籠る習慣であった。やがて年籠りは、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」との2つに分かれ、元日詣が今日の初詣の原形となった。 江戸時代末期までの元日の社寺参拝としては、氏神に参詣したり、居住地から見て恵方にあたる社寺に参詣(恵方詣り)したりといったことが行われた[1]。

「年籠り」形式を踏まず、単に寺社に「元日詣」を行うだけの初詣が習慣化したのはそれほど古い時代ではなく、明治中期のこととされている。また、氏神や恵方とは関係なく、有名な寺社に参詣することが一般的になった。俳句で「初詣」が季語として歳時記に採用されたのは明治末期であり、実際に「初詣」を詠んだ俳句が登場するのは大正時代以降であるという[2]。


研究者の平山昇は、恵方・縁日にこだわらない新しい正月参詣の形である「初詣」が、鉄道の発展と関わりながら明治時代中期に成立したとしている[3]。


鉄道網の発達に伴い、成田山新勝寺など郊外・遠方の社寺にもアクセスは容易となり、また京成電鉄や京浜急行電鉄、成田鉄道(現・JR成田線)など、参拝客輸送を目的として開業された鉄道会社も登場した。競合する鉄道会社間(国鉄を含む)では正月の参詣客を誘引するために宣伝合戦とサービス競争が行われた。当初は鉄道による有名社寺への「恵方詣り」の利便性が押し出されたが[8]、年ごとに変わる恵方に対して「初詣」という言葉がよく使われるようになり、大正時代以後は「初詣」が主に使用されるようになった[9]。

(注意:この記事における出典の多くが、平山昇『鉄道が変えた社寺参詣 (交通新聞社新書)』(交通新聞社、2012年)による。)


以上を踏まえると、「神社の作法は時代によって変遷するものである」ことがはっきりと言えます。つまり「時代に合わせた作法を新たに作ることも、むしろ人間にとっても神様にとっても自然なことである」というこれまでの仮説に対する根拠にもなると思います。

藤原 惟

*1:「スピリチュアリティ」「スピリチュアリズム」「スピリチュアル」などの単語は、文脈や分野によってニュアンスが違うため、注意が必要である。参考:スピリチュアル - Wikipedia