おうちをつくること―年の瀬の挨拶にかえて(2)

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※その1の続きです:ポジティブにあきらめること―年の瀬の挨拶にかえて(1) - サードウェーブ系哲学的ゾンビ

近ごろはステイホームなんて飽きるぐらいに言われています。あらためて思うのは「ホーム」の有り難さ、そして成立の難しさです。

小耳にはさんだ話では、リモートワークが多くなったせいで、余計に家族仲が悪くなったご家庭も少なくないそうです。

かたや、いわゆる「DV」「毒親」のような機能不全家族の元で育ち、そもそも「ホーム」なんてなかった、という方も多くいます。

うちの実家は比較的平和な方だと思います。しかし祖父母が生きていた時期には(おもに祖父の)いろいろ事件がありました。

そして今も、ふとした「間合い」のレベルで家族とすれ違ったりして、未だに「これでいいのかなあ」ともやもやすることもあります。

そんな中で、自分を受け入れてくれる実家、すなわち「ホーム」があることは、とても貴重なことだと最近は痛感しています。


私は長らく、「居場所」という概念にこだわりを持っていました。小中学校では、なにか友達の輪に入れず、図書館や廊下で時間をつぶすような子どもでした。そんなこともあり、半生は「居場所探し」を繰り返して迷子になっていました。

いまの自分がやりたいのは「誰かのおうちをつくる」ことです。かなり広く曖昧な意味ですが、方向性としてこう言ってみます。

帰ってこれる「ホーム」をつくること、「安全基地」をつくること、心理的安全性のある場所をつくること。そんな「心のおうち」づくりに、無理のない範囲で少しずつ小さく関わっていけたらいいのかなあと思っています。

一方で「自分で自分のおうちを守る」ということも、忘れてはならないと思っています。自分をきちんとケアできなければ、他人のケアなんて満足にできない。そう痛感した一年でもあります。


世界的には激動の一年。

「これから世界はどうなっていくのだろう」と不安になったりしますが、最近はむしろ「世界がよくなりますように」という祈りを込めることが多いです。

同じように「みんなが健康に過ごせますように」と、最近は切実に祈るようになりました。盲腸や大怪我でも、いまは入院自体が困難な世の中になってしまいました。

せめて、あなたの「ホーム」が無事でありますように。「ホーム」がない人にも、自分の「おうち」が見つかりますように。

藤原 惟