哲学小話:『君の名は。』で考える「名前とは何か?」
- ライトなネタバレがあります。念のためご注意ください。
- この記事は映画『君の名は。』の考察ではありません。考察を読みたい方は、記事末尾のおすすめ考察記事をご覧ください。
ついに観に行ってきました。『君の名は。』
映画本編をぼーっと観ながら色々考えていました。人文学と絡められる「フック」が結構あって楽しいので、人文学畑の方はぜひご覧になってください。(特に民俗学、天文学、人文系の地理学あたり。)
さて、今回はこの作品の主題である 名前 について考えてみたいと思います。
二人を繋ぎ止める「名前」
詳細は省きますが、作品中では色々な時点で、主役の二人の「名前」がお互いを繋ぎ止めたり、繋ぎ止めようとしてすれ違ったりします。
その中で、「相手の名前を忘れると同時に、その存在自体も忘れてしまう」 シーンがいくつかあります。
さて、少し不思議に思いませんか?
瀧も三葉も、 あれだけ強い気持ちを抱いていた相手のことを、名前を忘れたぐらいで簡単に忘れるのだろうか? と。
実は、(タイトルに「哲学小話」と書いておいて厳密には哲学ではないですが)言語学における大きな論争として「思考は言語に規定されるのか?」という話があります。
その中でもサピア=ウォーフの仮説を題材に、「名前」について考えてみたいと思います。
サピア=ウォーフの仮説
下記のサイトより、適宜引用します。
サピア=ウォーフの仮説には2つの仮説がある
サピア=ウォーフの仮説は、厳密には「強い仮説」と「弱い仮説」があるので、注意が必要です。
- 強い仮説
- 思考=言語、つまり「言語の無い思考など存在しない」という考え。
- 非言語的な思考を認めない
- その言語で表現できない事柄は思考する事もできない
- 思考が大きくその使用言語により制限されるという考えである。
- 思考=言語、つまり「言語の無い思考など存在しない」という考え。
- 弱い仮説
- 非言語的な思考まで存在を否定しているのではなく、その存在を認めた上で言語が思考の内容に一部影響するという考え。
『君の名は。』とサピア=ウォーフの仮説
『君の名は。』の話に戻りましょう。
作品の中では、瀧も三葉も「名前を忘れると、その存在もじきに忘れてしまう」という描写のされ方をしています。
これは、サピア・ウォーフの仮説でいう「強い仮説」 を採用している、と解釈できそうです。
つまり、「たき」や「みつは」といった名前こそが、瀧や三葉の声や姿やイメージをお互いの脳内に繋ぎ止めているのです(少なくとも作品世界では)。 よって、名前(=言葉)が脳内から失われることは、相手の声や姿やイメージが脳内から失われることと等しいのです(少なくとも作品世界では)。
それって本当?
しかし、現実世界の我々(少なくとも私)にとっては、サピア=ウォーフの強い仮説による説明はあまり釈然としません。なぜなら、「名前を知らなくても、ある人物のことを記憶できる」 という経験があるからです。
恥ずかしながら、少し私の経験を話しましょう。
5年ほど前の話。近所のある書店で女性の店員さんが働いていました。童貞をこじらせていた私は、その書店に足繁く通いました。その店員さんはバイトらしく、シフトが入っていない日に訪問した際はひどく落ち込みましたが、偶然シフトが入っている日には何事もないように店内を物色しつつその店員さんにお近づきになろうとしました。
ある日、何回かその書店に通っても、その店員さんがシフトに上がってこないことに気づきました。おそらく、そのバイトを辞めてしまったのだと私は結論しました。
さて私は 今現在、この店員さんについて何を記憶しているでしょうか?
少なくとも、今文章で挙げたことについては記憶をしています。そして、おぼろげながら顔と雰囲気を記憶しています。
もちろん記憶違いや記憶改ざんの可能性は否定できませんが、その店員さんの名前を知らないのに、5年も前の話をこれだけ鮮明に覚えているのです。
ちなみに、店員さんの名前は覚えていませんが、(近所の本屋なので)本屋の名前は記憶しています。なので、「○○書店にかつてバイトとして存在した女性」 という名指しの仕方はできるかもしれません。
とはいえ、このエピソードだけでも、個人的にはサピア=ウォーフの強い仮説は疑わしい、と考えます。
とはいえ、名前重要
しかしながら、このエピソードで名前の重要性を否定できるとは思えません。少なくとも、サピア=ウォーフの弱い仮説は否定できないと私は考えます。
虹の色は本当に7色?
例えば、サピア・ウォーフの仮説とセットで取り上げられやすい有名な例として「虹の色」があります。
日本語では言うまでもなく「虹は7色」です(これはニュートンに由来するらしい)。しかし、世界で比較すると、言語によって虹の色が異なる ことが知られています。
ニュートンが虹を7色と決めたからといって、イギリス社会一般で虹の色が7色だと統一されたわけではない。現在のアメリカでは一般的に赤、オレンジ、黄、緑、青、紫の6色と認識され、ドイツでは物理の教科書でスペクトル分類と合わせて赤、オレンジ、黄、緑、青、紫の6色、またはニュートンの名とともに藍(インディゴ)を加えて7色としていて、人々の認識もさまざまである。虹の色を何色とするかは、地域や民族・時代により大きく異なる。日本でも5色(古くは8色や6色)、沖縄地方では2色(赤、黒または赤、青)、中国では古くは5色とされていた。なお現代でも、かつての沖縄のように明、暗の2色として捉える民族は多い。
インドネシアのフローレンス島地方では、虹の色は、赤地に黄・緑・青の縞模様(色の順番としては、赤・黄・赤・緑・赤・青・赤となる)とするが、この例のようにスペクトルとして光学的に定められた概念とは異なった順序で虹の色が認識されることも多い。
虹の色は言語圏によって捉え方が異なる。実際に、ジンバブエのショナ語では虹を3色と捉え、リベリアのバッサ語(英語版)を話す人々は虹を2色と考えている。このように、虹の色とはそれぞれの言語の区切り方によって異なる色の区切り方がなされるのである。
虹の色が何色に見えるのかは、科学の問題ではなく、文化の問題である。何色に見えるかではなく、何色と見るかということである。
呼んではいけない名前:諱(いみな)
「文化と名前」といえば、漢字文化圏では諱(いみな)の話もあります。
諱という漢字は、日本語では「いむ」と訓ぜられるように、本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞である。
この漢字は、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、転じて人の本名(名)のことを指すようになった。本来は、名前の表記は生前は「名」、死後は「諱」と呼んで区別するが、のちには生前にさかのぼって諱と表現するなど、混同が見られるようになった。諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字(あざな)といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。
(中略)
諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた。これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。
この辺を『君の名は。』本編の話(特に「ムスビ」)と絡めて考察すると面白そうなので、誰かお願いします(丸投げ)。
ちなみに、『千と千尋の神隠し』を「諱」と絡めて考察しているサイトを見つけたので、ぜひ合わせて読んでみてください。
物語の中で、「湯婆婆が名前を奪って支配する」というのは言霊信仰そのものである。
おわりに
マクドナルドから追い出されるので、とりとめない形ですが文章を終わりにします。(この文章はあえて章立てをせずだらだら書いています。)
この記事では、『君の名は。』の特に「名前」について、サピア・ウォーフの仮説を中心にして色々話してみました。
色々話してみたいとか、間違っているとかありましたら、ぜひコメントやTwitter(\@sky_y)などでご意見・ご感想を下さいませ。
おまけ:おすすめ考察記事
時系列の考察記事でも(たぶん)一番分かりやすい記事。
時系列の詳細が書かれた記事。
もはや考察じゃないけど、面白いので紹介。
藤原 惟