メモ:認知フォーマットとしての物語

Theatre

Facebook上での投稿から思い付いたことをメモ。

レヴィ=ストロースが明らかにしたように、人間はどの文明であっても、有史以来から神話を初めとした「物語」あるいは「歌」によって、物事を理解し記憶しようとしてきました。

注目すべきは(何故かはわからないが)「人間の認知システムは、物語という情報のフォーマットと相性が抜群によい」ということだと思います。

実際に、古代ギリシアでは政治と演劇は不可分だったし、音楽は古代の吟遊詩人からナチスドイツ時代のワーグナーまで政治や歴史と結びついています。

一方、認知心理学においても「エピソード記憶」という長期記憶の一種が知られています。一連の体験についての記憶であり、感情を伴い、数十年間の長期に渡って記憶できる利点があります。

(その反面、時間を経るにつれて記憶内容が入れ替わる(改ざんされる)欠点もあります。)

エピソード記憶 - Wikipedia


その意味で、僕は「人を心から動かすには、物語の力を積極的に使うべきではないか?」と最近模索しています。

それは、「人間の理不尽」に対する武器でもあると思います。

科学とは、「人間が認知の歪みを排除し、正しくものを見るための戦い」とも表現できると思います。その成果が「ものや現象を表現する言語」としての数式であり、電子顕微鏡であり、天体望遠鏡であり、シミュレーションだと思います。

ただ、科学が正しく「自然の真実」を明らかにしたところで、やはり人間は生きるために社会を作るので、そこには「認知の歪み」が山のように積み重なって正当性すら帯びてしまいます。

その結果が、いわゆる「ブラック企業」であり、ニセ科学であり、原発を巡る対立だと思います。

そこで僕は、人間の特性を逆手にとって、「人間の理不尽」を「物語」で克服できないか?ということを考えています。

その意味で、僕は「実学としての人文学」を学ぼうとして、今は色々な本を漁っているところです。

(とりとめのない文章ですが、ひとまずメモとして考えたことをアウトプットしてみました。)

藤原 惟