【哲学メモ】「何かを判断すること」に対して、人間の主観を入れるべきか?
例えば、ビジネス上の意思決定や裁判みたいなものを考えます。
いずれも普通は、できるだけ理性に頼ります。つまり、ロジック・法律・学問などを駆使して、「(それなりに勉強すれば)誰でも納得できる判断理由」を作るのが普通です。
しかし最後の最後の判断は、例えば死刑を言い渡せるのは、人間の主観しかない。僕はそう確信していますが、これに関してうまく理屈が付けられません。
上記最後の1段落は、いわゆる「死刑廃止論」とは区別してください。 つまり、フィクション上の例え話(しかし、現実に起こりえる事態)をしています。
状況としては、下記を考えています:
- 「理性的にどう考えても、死刑がふさわしいであろう」という結論が、十分な議論と証拠の上で合意されたとき。
- 言い換えると、「論理学や法学や倫理学などを完璧に学習した(真の意味で理性的な)人工知能が、「死刑が妥当である」という結論を出した」という場合の思考実験。
以上の条件下で、次のような問題を考えます:
「はたして壇上の裁判官は、どのような思考や神経などのプロセスを経て、実際に口から出た音声として「死刑」と発音できるのか?」
これも人工知能で言い換えると、下記のとおりです:
「真の意味で理性的な人工知能が「死刑を言い渡すべき」と判断した場合、その判断をそのまま法的な判例にできるのか?」ということです。
今は僕も結論が出ませんが、とりあえず「そこには、人間(裁判官)の主観が入るべき」とだけ、意見しておきます。
ひとまず、筆を置きます。
藤原 惟